池畔の柳影 西條藩見聞録

 

『池畔の柳影』抜粋 

    序文 

自分が幼い頃古老や長上たちから聞いてきたことを、このようにあれこれと書き記すのは子孫のために残そうと思うからである。ここでは、江戸藩邸に勤める者たちについては、あまり触れていない。

その理由は、国許の西條と江戸は数百里の距離を隔てており、江戸藩邸での出来事の八、九割までが正確にはわからないからである。たとえ、伝え聞いた出来事の一つ二つのことを書こうと思っても、出てくる人物の人柄などについては、わからないこともあり、またその出来事が事実かどうかも確かでないため、書くわけにはいかない。しかし、そうは言っても、ここに出てくる西條藩邸の者に深く関連する者については書き記した。

これを題して『庭の香ふ』という。

 

 その壱       大手門付近 〜第二章『大手門付近』より〜 

西條藩陣屋の大手門には、もともと二間幅の引き戸と三尺幅のくぐり戸があった。大雨や高潮などの時、濠の水が溢れて、引き戸開かなくて難渋したとの記録がある。そこで、竹内立左衛門は今あるように堅固な用材でもって、風格ある開き戸の薬医門に改築したのである。

その時の引き戸は、北の御門に使ったが、天保六年未年(一八三五)に九代西條藩主頼学(よりさと)公がお国入りになられた際、北御門も西御門も開き戸に変わったのである。

今磯社のあるご陣屋の南お濠端は、高い土手になっていたが、先年の地震によりその周辺が陥没して葦原(よしわら)となった。

これは好都合なことで、水がたまり大きな池となり、陣屋の周りの備えが強化され、まさに要害となったのである。

この陥没した所はそのほとんどが広島屋多右衛門の所有地であった。

陣屋の東、お濠通りには水道があり、陣屋につながる道には長い土橋があったのを、小川八兵衛が普請奉行の頃にこれらを取り除いたと聞いている。

本来、お濠の工事をすることは、公儀の許可がいるので容易なことではないが、飲料水との関係で、濠の底をさらえることは許されていた。

お濠端の石垣に用いている大石は、かつての藩主一柳氏が城の石垣に使おうとしていた。しかし、幕府に咎められたので、その多くを土中に埋め、残りを今のようにお濠端に置いたということである。

石を埋めた場所は、新お長屋の西手と北お長屋の中ほどであったと聞く。

ところで、一柳氏が幕府の命令で改易になった理由は、密かに築城しようとしたためと世間ではいうが、事実はそうではない。京都女院御所の修理を断り、その上に参勤交代を怠ったためにお取り潰しになった、と昔の書物で読んだことがある。

現在の明屋敷の陣屋に一柳氏が移って来たのは、二代目藩主直重(なおしげ)公の時であり、もともとは大町村の狭間(はざま)に屋敷があったらしい。

古い武鑑を見ると、「明屋敷は伊予の国の北浜」とあるが、これらのことは『西條誌』に詳しく書かれているので、ここでは触れない。

 【考証】
 右文により大手門造営は寛政二年(一七九〇)ころだから、二百十年前である
(二〇〇〇現)

広島屋多右衛門西條開町の節大町村より引っ越してきた商人七名の内の一人。大年寄広島屋多右衛門
水道水が流れる道筋。上水道(飲料・生活・防火などに用いた)
土橋木などを組んでつくった上に土を覆いかけた橋。つちはし
普請奉行江戸幕府の職名の一つ。御所、城壁、堤防などの修理造築などをつかさどる
一柳家松平家就封前の西條藩主(三代 三〇年間)
狭間 大町村清水付近。古城ありしといわれる
西條誌天保十三年(一八四二)刊行全二〇巻 藩儒日野和煦(にこてる)著